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Hを勉強してHになってもなかなかHはできません

鹿島茂×井上章一,2003『ぼくたち,Hを勉強しています』朝日新聞社

前から買おうと思っていたのだが,情報量からいって
井上章一,1999『愛の空間』角川選書307
とかの方がよいだろうと思っていて結局後回しになっていたところに,図書館に配本されたので,借りてみる.

いやぁ,軽快に「性談」(鹿島茂)がなされていて,それができるのも両者の尋常じゃない博識がなせる技と感嘆.まだ読みかけだが,左翼運動の衰退(古くは大正デモクラシーの退潮)と風俗営業規制緩和に何らかの関係性があるのではないかというのは面白い見解.だけど,風俗営業が文字どおり「国家のイデオロギー装置」と考えてしまうのは,陰謀史観めいてもいてイヤなのだけど.

そもそも,国家が性風俗を管理するって考え方,もうどうなのかなぁと思う近頃だ.私は,性表現に関する法規制の類型化とその妥当性を探ったつもりのことを卒業論文でやったのだが,この時も,結論として規制の方法としては「ゾーニング」くらいしか許容できない,としたはず(そのことが充分に届く形で表現できたかどうかは些かの自信もないが).

必要悪として国家が業態を管理することが,セックスワークを利用/供与する双方にとって,あるいはそのメタレベルにある社会にとって望ましいあり方なんだろうか?だいたいが,必要「悪」なんていう表現自体がセックスワークスティグマ性を露骨に表しているじゃないか.そのスティグマ性は,利用者にも供与者にも及ぶ.むしろ,セックスワークを利用者/供与者双方にとって法的に保障していくことの方が現実的だと私は思う.

その点で,
瀬地山角,2001『お笑いジェンダー論』筑摩書房
の第3章「セックスワーク論」はその議論の過程は肯定できるのに,なぜああいう結論になるのか非常に違和感を感じる(これも読みかけで恐縮だけど).いずれ,その違和感をきっちり文章にまとめたいと思う.

あぁ,こんなことばっかして理論武装に励むから,よりもてなくなるんだよね.分かっちゃいるけどやめられねぇ悲しい性.