私たちの道徳の起源は「ヒーローもの」だったか?

 小学校の頃からの友人が「中学校でウルトラマンを教材にする国語教師」ということで、ウルトラマン誕生40周年にちなんだ『筑紫哲也NEWS23』のマンデープラスに取り上げられた。
 本人から出演告知が何度かあったので、楽しみにして観ていた。身近な(といっても最近は疎遠がちだけれども)人間がフィーチャーされるのは、それはそれで趣深い。
 映像の中でその友人が勤める中学校の職員室での映像が取り上げられた。教師である友人にとっての職員室はさしづめ『ウルトラマン』における「科学特捜隊」である、とのフジ隊員こと桜井浩子氏のナレーションとともに。そこで、友人の同僚(我々より年配だが)が「子どもの頃に見たヒーローものの世界観が今の自分たちの正義感とか道徳観の基礎になっているのではないか」という発言(大意)があった。
 その意見に賛同するとかしないとかではなくて、少々驚きを感じた。
 「そうかなぁ」という懐疑と、仮にこの言明が正当であると受け入れた上で、そして、今の日本社会が荒廃しているという前提でその道徳的基盤の強弱が幼少時に観たヒーローものであったとするなら、今、なぜこのような荒廃ぶりに?そして、そもそも私を含む同世代の人間にとって、ヒーローものを含めたテレビ視聴がどれほど自分の人格形成に関わっているのだろうか?という意味で。
 もちろん、件の友人の同僚氏は、映像に即した気の利いたコメントを発したに過ぎない、と受け止めるべきだし、実際そうなのだと思う。
 ただ、その意図とは別に、自分の道徳観なり倫理観なりは、いったい何に由来しているのか、ヒーローものの視聴体験も私の正義に関する重要な一要素なのかなぁ?と自問自答してみた次第。
 もし、そうだとするならテレビ番組の視聴体験が、私を含む同世代にとって人格を育む大きな要素となっていることになる。そして、相対的にテレビ体験以外の世界から受ける影響力が弱体化しているということでもある。
 特集自体は『NEWS23』であるからして(なにがだ)、ウルトラマンの「不惑」を単純に寿ぐ、といった内容のものではなく、堀江被告とか小泉首相とかがでてくる「時論」ベースのものなのではあるが、堀江被告は私と同世代だとしても、小泉首相はむしろ私の父の世代の人間。この二人にとっては、中身の相違はあれ、本質的にはテレビが人格を陶冶した要素は薄いように思う。堀江被告にとっては、もともとテレビへのアクセス度が低そうだし、小泉首相にとっては世代的にテレビ視聴体験よりも映画だったり雑誌文化だったりの方が世代論的には大きいだろうと考える。
 こうして、全く無根拠の印象論を続けるのもアレなので、いいかげんやめるが、では、今の日本社会にあって「強食」側はテレビからの影響度は薄く、「弱肉」側はテレビによって強者に食べやすい「肉」に加工されているのか。
 なんか、こういうことはすでに'80sに識者に十分語り尽くされていて、そのさわりすら不勉強な私が分かっていないだけのこと、というのも当然浮かぶ疑問兼自己批判でもある。