30代も半ばに入り…

 たまたま「ダイ・ハード」の後のつなぎで「@ヒューマン」を見たら,「アラサー」なるワードについての解説をしていた(今日は田中美里がゲスト.余談だが島津アナも田中美里も好きです.).
 あたしの場合は,"Around 30"どころじゃなくて,"Over 30".でも,精神はグループ魂の「Over 30 Do the Soul」よろしく「オレの精○で琵琶湖を満たせ!」だったり「オレのティッシュでお台場埋め立てろ!」だったりするのだが(こういう引用はJASRACに指摘されるんだろうか?).
 今月あたしは34歳になった.
 お祝いの電話やメールをくれるのは,家族だったりカノヂョだったり友人だったりという自分に近い人たちよりも,数的にはメールマガジンを発行する企業の方が多くなってきた近年だ.儀礼的にというか形式的にそうすることで,この浪費人生の私にさらなる消費を喚起するために誕生日にまつわるこじゃれた欧米の話なんかを添えて.
 成人してからもう14年という歳月を経てきてしまった事実と,その歳月に見合うだけの成果というか結果というか,そうしたなにがしかの爪痕を世間様に残せたのか,それは成果でなくても例えば自分の属するさまざまなコミュニティなりアソシエーションなりに石原東京都知事が大好きな「余人を持って代え難い」存在たり得るようになったのか,そんなことを天秤にかけるように考えると,いろんな自問やら後悔やらが頭の中に溢れてくる.
 特に仕事に一所懸命というわけでもない.
 あたしの業種でいけば,職場とか能力差とかはともかくとして働き方のモデルとしては事務屋では「官僚」がもっとも激務についているだろうと思う.そのモデルと比較すれば,いわゆる「9時から(朝)5時まで」などという仕事はない.日をまたいで退社するくらいが「すごく大変だった」という程度のものだろう.あるいは,児童福祉司のようなケース対応に携わる職員がモデルになるだろうが,これとて全く「24時間対応」なんてできていないのだから,福祉司の方々の張り詰めた緊張感の中での仕事ぶりの彼岸にあって「やぁ大変,大変」と言っているようなものだ.どちらの仕事も,自分が希望するかと言えば希望はしたくはないけれども,厳然としてモデルとしてある以上,これを準拠集団としてとらえて彼我の差を考えずにはいられない.で,考えてみるけど,やっぱり体力・知力・胆力などの初期条件からいって,今の会社でモデルを見習う形で仕事を行っていく能力が自分にはないと思う.
 では,「趣味の世界で生きていく」みたいなのはどうか.
 学生の頃から始めたラッパも,最近はなんだかごくたまにしか手にしていない.「いつか"I Remember Clifford"がやりたい」という夢も,果たしていつになるのか分からない.近頃始めたサックスも,いろいろな組織のしがらみ上やらざるを得なかった(吹くこと自体は嫌いじゃないし,それなりの課題があって結構楽しい)のだけれど,これとて30代も半ばに始めてどのくらいの世界までいけるのか分からない.
 本を読むのが好きで,哲学・思想系や理論系の社会学の本を買ってはぱらぱらめくって読んできては見たけど「日曜研究者」になれるほどの蓄積もない.文章を書いたところで,どれだけ世の中に自分の言いたいことが届いているのか,それ以前に自分が言いたいことを世間に届けているのか分からない.性風俗の消長に関心があっても,それを適切な言葉にしてレビューもできず,これではライターみたいなこともできないだろう.
 何かなにもかにも中途半端で適当で,いるのは勝手に最上位のモデルを手本にしてそこからの乖離に勝手に悩んでいる自分がいるだけだ….
 かといって,そんな自分を「消去してしまいたい」というようなこともなく,気分は,以前エントリした林子平の「死にたくもなし」の心境だ(また,林子平と自らを重ね合わないのに重ねようとする傲慢に悩むところだが…).
 さらには,すべてをリセットして全く新たなことをするには,いささか状況の見切り時を誤ったという感がある.
 結局,あたしは,そのときそのときの夢中になってることを短いスパンで飽きるまでして…という生き方で終わるのかもしれない.
 そういう意味で誕生日は,決してめでたくない.ふだん,意識されないいろいろなことを考えてしまう一日で,ブルーだった.