「批評の性愛コンプレックス動員論」なんてない

 アンテナに入れて定期巡回している「歩行と記憶」(d:id:kuriyamakouji)でのエントリ

を読んで,言及先である松平耕一(敬称略,以下同じ)の

さらには「論争」(なのかな?これって…)の当事者である宇野常寛

及び東浩紀

まで読んでみての雑感.
 まず宇野のメルマガ記事であるBの内容.
 どうやら,批評への動機付けに関する性愛コミュニケーション(「コミュニケーション」って表現も適切に限定化されていないが)の型の違いについての話のよう.ここで,批評へと向かう人とは暗黙のうちに「男子」が想定されていることも付け加えておいてもいい.
 宇野氏,90年代以降の批評の場が読者の「性愛コンプレックス」によって動員されてきた,とする.その当否については「?」ではあるのだけれど,その判断はさておき,そうした性愛コンプレックスによる動員の始まりは宮台真司からだとし,

(前略)宮台真司はどうしたか? はっきり言ってしまえば、読者の性愛コンプレックスに訴えたのだ。同じ偏差値なら、地頭の悪いやつほどコミュニケーション下手で、満たされないプライドを確保するために本を読んでいる(無論例外はあるが)現実(中略)を背景に、宮台は求心力を確保するために「モテたければ俺の本を読んで修行しろ」というメッセージを「暗に」発信することを選んだのだ。(後略)

と説明する.う〜む.宮台は果たして「『モテたければ俺の本を読んで修行しろ』」と「『暗に』」主張していたのだろうか?まぁそれはともかく,宮台の著作を読んで「ナンパの効用」みたいなものを了解した層はいたかもしれない(あたしもそういう読み方をした記憶はある).実践した人はどれくらいいたかはともかくとして.宇野の議論は,紙面の都合を割り引いたとしても大風呂敷に過ぎる気がしないでもない.たとえば宮台が速水由紀子との共著『不純異性交遊マニュアル』などで書いていたのは,主として男子の側の性的コミュニケーションでの過剰流動性への対処方法として「スティンガー系」が一方にある,というくらいのものでしかなかったように思う.

不純異性交遊マニュアル

不純異性交遊マニュアル




 宇野は,さらに00年代に登場する東は,ギャルゲーやアニメなどの二次元美少女への性的志向をもつ読者に訴えることで批評の読者層を取り込んだとする.その上で,宮台も東も結局のところ,読者の「性愛コンプレックス」を動員に使っていた点では同じだとし,宇野はそうした性愛コンプレックスから動員される層を,自ら展開していく論壇からは排除していきたいと宣言する.

「ナンパ師になれ」と言った宮台真司、「ギャルゲーマーでOK」と言った東浩紀を前に、では僕はどう主張するのか。僕の言うべきことは単純にして明快だ。「友達からはじめよう」、そして普通に付き合おう、それが僕の立場だ。

だから僕の関心はむしろ、性愛コンプレックス動員をかけずにすむ「場」の設定にある。ラブゾンビたちの動員なしに成立する新しい批評の「場」をつくりたいと思っている。つまり批評の読者の「入れ替え」だ。だって、ラブゾンビたちに必要なものは勇気とマニュアルであって思想ではない。無論、両者は根のところでは通底しているが、物事には順序というものがある。現状を考えれば、まずは性愛コンプレックスにある程度折り合いをつけてから、改めて批評や思想に接してもらったほうがいいだろう。

 全体として「批評ってそんな大仰なものか?」という疑問と「性愛コミュニケーションにやけにナイーブに過ぎはしないか?」という印象を受けたところ.
 で,この宇野のB論への批判が東のC論で,

そもそも批評や現代思想の読者の中心が性愛コンプレックスで動員されている連中だ、という状況認識がおかしい。

とバッサリ.
 東は,批評や現代思想を駆動しているのは性愛コンプレックスだけではない,少なくとも,

性的承認以外にも、この世界には考えるべきことはやまほどあり、批評や思想の多くの読者はむしろそっちに興味がある。宇野さんが入れ替える以前に、そういうひとのほうが多いのだ。

と主張する.

困ったことに、日本ではこういうことを書くと必ず「上の世代が下の世代を潰しに入った」と言うひとがいる。だからあまりやりたくなかったのだけど、ちょっとこれは『論座』で新世代の論客と褒められたひとにしてはあまりに幼稚な文章だと思ったので、書きました。宇野さんと同世代でも期待できるひとがたくさんいるのは別に知っているし、そっちはがしがし応援しています。いや、宇野さんもこれからも応援したいのだけど(『ゼロ年代の想像力』はよかったのだし)、だからこその苦言と受け取ってください。

同感である.
 さて,以上の議論を踏まえて,松平のA論(「論」というほどハードな内容ではないが)が出てくるわけだが,たぶん,松平が一番関心を寄せているのは「ムーブメントとなりうる批評を書くためには,その内容に読者のセクシュアリティに訴えかける要素を持つこと」ということなのだろう.う〜む.たしかにそう言えなくもないかもしれないが….松平は「私はそれを恐れる」と書いて終えているが,別にセクシュアリティに関する言説がなければ批評として力を持たない,なんてことはないと思うので杞憂だろう.
 また,松平は「批評への欲求」と「批評の歴史的考察」の2つに分けて話を進めているが,欲求の方は,たとえばマズローの欲求階層説を引き合いに出してもう少しすっきり説明できるのではないか.歴史的考察の方は,批評のことなのか名誉のことなのか混同して論じられているのと,定義づけなく「大きな物語」ということばが出てきているのとで,ちょっと意味不明な感じ.
 話は宇野のB論に戻って.
 あたしは,この方の名前を初めて知ったのだけれど,彼が言うほど批評の影響力が強大だったり,また,読み手/書き手の性愛観が批評に色濃く陰を落としているということは無いように思われる.あたしは,東の著作はどちらかというと積ん読で終わっているのであまりきちんとしたことを言えないのだが,少なくとも宮台は,ある時期,コミュニケーションの過剰流動性を論じる際の素材として性愛コミュニケーションを持ち出した,というだけのことである.でも,巡回先のkuriyamakoujiさんも含めて,どうもこのB論は「アンチ性愛論」を打ち出しつつ,逆に他の論者の「性愛論」を引き寄せる結果になっていて,なかなか興味深い.
 で,あたしも釣られていることを承知で書くが,性愛の場というのはもっともっと多様ではないのか.ナンパだ二次元だ「普通のお付き合い」だと列挙されていくが,性風俗だって性愛空間の一つではないか.「あまりにウブすぎる」という感が否めない.しかも,ここで挙げられる性愛コミュニケーションとか対象物とかいうものは,たかだか20年程度のものでしかない.
 また,90年代以降の批評の場が性愛コンプレックスに訴えることで駆動されてきたということもないだろう.強いて言えば,松平の言うように,性に関する言及のあった批評に反響があったかもしれない,というだけのことである.
 もう一度,同じ箇所を引用するが,

(前略)宮台真司はどうしたか? はっきり言ってしまえば、読者の性愛コンプレックスに訴えたのだ。同じ偏差値なら、地頭の悪いやつほどコミュニケーション下手で、満たされないプライドを確保するために本を読んでいる(無論例外はあるが)現実(中略)を背景に、宮台は求心力を確保するために「モテたければ俺の本を読んで修行しろ」というメッセージを「暗に」発信することを選んだのだ。(後略)
(強調部筆者)

これはどう読んでも中傷だろう.読者が自己卑下でそういうならともかく.
 なにか,宇野が新しい批評の場を模索しようとして,些か粗雑な動員論をまとめてしまった印象を受ける.
 そして,宇野の前提する批評家が無意識に男性を想定してしまっている点については,冒頭に書いたとおり.このことについては,あたしも中年エロオヤジなので,他の女子による批判をまつところ.
追記:
 宇野は,宮台の『これが答えだ!』とかを想起していたのかなぁ?ただ,あれは単なる人生相談だと思う.学者がする人生相談の答えがどのように受容されるのか,という問題はあると思うが.