(例の田母神論文がらみで)近代日本の外交政策

 先のエントリ(d:id:h2so4:20081104:p1)の後半,外交史に関する認識について自己批判がわりに.
 後半の論理の問題も取って付けで蛇足もいいところだ,と深く恥じ入る.
 ところで,明治以降の日本の外交戦略として,特に,中国・朝鮮に対する日本の初期の基本的な考えは,両者に開国を求め日本と対等な外交関係を構築し,西欧列強に対し東アジア勢力圏を形成するというものだったと思われる.だから,1871年の日清修好条規は,領事裁判権を相互に認めるといった形で両者の対等性を確保した内容で締結されたものだと考えられる.
 一方で,そのためには,清朝李氏朝鮮琉球等との間の冊封関係を解体する必要が生じる.琉球処分と呼ばれる琉球王国の日本領への編入過程は,琉球王国の独立性に鑑みれば日本の侵略と言えるし,清と日本への両属関係関係を暴力的に解消することで清と琉球との冊封関係を解体したものとも言える.
 李氏朝鮮に対する開国要求の過程でも,李氏朝鮮の硬直した外交姿勢に対して征韓論が政府内で出たもののこれが採択されず,西郷隆盛ら征韓派が下野せざるを得なかったのは,この時点では政府に李氏朝鮮と事を構える――つまり,その宗主国である清と対決する実際的な力がなかったということが第一だろうが,初期の日本の外交姿勢である清と日本が対等な関係で列強に対抗する途を模索する余地がまだあったからだとも思われる.
 その後,李氏朝鮮をめぐり壬午軍乱・甲申事変と日清間に緊張関係が訪れるが,1890年の第1回帝国議会における山県有朋首相の「主権線・利益線」発言においても,日清提携による朝鮮の独立確保が主張されていた.しかし,朝鮮が日本の利益線であると明確に意思表示された段階で,日本にとって朝鮮は軍事的にでも勢力下に入れなければならない(つまり,朝鮮への進出であり侵略)と日本政府が意識したことは明らかであり,これが対中国・朝鮮外交の転換点になったのではないかと考えられる.
 結局,甲午農民戦争の勃発により日清戦争が開戦し,日本が勝利して1895年,下関条約により清朝間の相続関係を清算させ,加えて遼東半島や台湾・澎湖諸島の割譲まで清に認めさせた(遼東半島は三国干渉にあって放棄せざるを得なかったが)段階で,福澤諭吉の「脱亜論」の説いたような方向へ日本の国策が転換したのではないかと思われる.日清戦争における日本の勝利によって,日本がもはや穏健な形で清朝による中華帝国を解体する必要がなくなり,あとは,後発国の日本の勝利を見た列強による中国分割が進展していったわけである.
 この日清戦争以後から,今度はロシアとの対抗が日本の対外政策上の最重要課題になっていくわけで,そこには中国での権益等をめぐって,イギリスを中心とした他の列強の思惑も絡んでくる.ロシアの南下政策は,日本の利益線である朝鮮半島を脅かし,イギリスの中国における権益の脅威ともなるから,イギリスが「光栄ある孤立」を捨てて日英同盟を締結し,これによって日本も対露強硬策に外交姿勢を転換して,日露戦争に突入する.この戦争にも日本は日本海海戦の奇跡的大勝などにより,ロシアに対し戦勝国としてポーツマス条約で講和することができた.和平交渉の仲介者が見つからずに戦争が長期化していれば,ロシアの大規模反攻にあい,利益線の朝鮮どころか主権線である本土までロシアに攻め込まれる可能性もあったはずだが,結果的には日本の利益線を中国東北部満州まで押し上げることになる.
 同時に,日本にとっての主権線が朝鮮――「大韓帝国」の国号に解消されていたが――に書き換えられることにもなったわけで,三次にわたる日韓協約によって,日本は韓国を併合する.併合された韓国をいわば内地化していった日本の政策を,田母神論文ではあたかも他の列強にはない穏健な植民地統治政策だったと主張しているが,朝鮮半島が日本にとっての主権線と観念されれば,国内資源の乏しい日本にとっては韓国を農業・工業化して行く必要性があったわけで,そのための韓国の開発とその成果を指して「日本は植民地で善政を行った」というようなことを言ってもあまり意味がないように思われる.
 管見では「主権線・利益線」の議論に朝鮮が利益線として観念された段階で,朝鮮半島への日本の侵略意図は明確化され,その後,主権線・利益線それぞれが押し上げられ満州が利益線と認識される段階になり,直接的には武力衝突するおそれがなかったアメリカとも緊張関係に入らざるを得なくなったことで,第1次世界大戦以降の日本の外交は新しい展開を迎えることになったと思われる.つづく,かもしれない.