「発達障害」という概念理解の困難さ

 社員の喫煙場所でのこと.
 先客に,同じ釣りサークルのメンバーである先輩が2名,元保育課長の3名が談笑していた.
 先輩2人は小学生の子を持つ親で,子どもの同級生について話をしていた.
 某大学の社会福祉学部を卒業した先輩いわく,
 「○○くんは,発達支援センターに通ってるけど,放課後のミニバス同好会での様子を見てたら,他の子と何も変わらないよ.□□くんだってそう.△△ちゃんは,あの子はちょっといっちゃってるかな?でも,オレらが子どもの頃だって落ち着きのないヤツはいたし,急に道路に飛び出したりするヤツはいた.だけど「障害がある」だなんて言わなかったよなぁ.彼らだって,そういう昔いた子どもと変わらないよ?それなのに,発達支援センターに通うってどうなんだろうねぇ….逆にあそこに通うことが差別的な扱いのような気がするけれども….センターってこいつが前任でやった仕事だ!」
と急に指を指され,「だよな?」と念を押される.
 「はぁ,まぁ」と曖昧な返事をし「でも,(先輩が言った)彼らも医師から診断を受けてはいますけど…」と答えると,
 「医者なんて,その子どもの日常なんか分からないだろう?おっかしいよなぁ.お前は(話題となっている子どもの)ふだんを見たことあるの?」
 「学校での様子とかは見たことありますが,それぐらいですね…」
 「だろ?おっかしいよなぁ…」もうこの辺りでは,先輩,やや侮蔑を込めた嗤い混じりに話をし,もう1人の先輩と元保育課長もこの話の筋に合わせて同感とでも言いたげな様子だった.
 「あんただって,その子のふだんの様子がよく分かると言えるほどの付き合いもないだろう」とは思ったが黙っていた.まぁ,あたしや医者よりは見えてるかもしれないが親とか学校の先生とかとは雲泥の差だろう,と.
 なんだか,彼の言ってることに対して違和感があったものの,その場ではうまく言葉に出来なかったし,彼の素朴な印象論に真っ向反論する気にもなれず,たばこも吸い終えたところで部屋を出た.
 ドアを閉じるとき,思わずつぶやいてしまったのは「分からない人に言ってもしょうがないしな…」というものだった.自席について,それからはため息しか出なかった.そして,先ほどのやりとりを自分なりに考えていた.
 そこで,もう一度ああいった話題が出された時にあたしはどう応答すればよいのかについてずっと考えてみて,出てきたのは,これは答えではなく逆に問いかけになってしまうのだが「その子が発達支援センターに通うことのどこがいけないんですか?」というものだ.
 おそらく,先輩は彼なりの接点から見たその子の様子と自分の経験に基づいて「どこもおかしくないのに,発達支援センターに行くのはおかしい」と考え,さらに言えば発達支援センターのようなもの自体が無用な差別的視線を生み出す存在になっているとでも言いたいのだろう.
 しかし,勉強が苦手な子が塾へ行ってみるように,発達支援センターに通うことがなぜいけないのだろうか.そう考えると,差別的視線やラベリング生産装置のような発達支援センターが問題なのではなくて,センターを取り巻くあたしを含めた地域の人々・集団の理解と認識の方が問題なのだと思われる.
 発達障害と呼ばれる傾向を持っていること,それ自体が困難なのではなくて,日々の生活の中で子ども自身と親が抱え込む困難をどうやって減らしていくか,それを当事者と一緒に考え必要なことを伝え/教えていくのがセンターの役割であって,別にスタッフは発達障害の子どもを見つけてはセンターに連れてくるのが仕事ではない.
 「昔だって落ち着きのないコ,ちょろちょろしてたヤツはいた───それを『発達障害児』とは言わなかった」というのもよく聞く意見ではあるが,「そりゃ『太陽が地球の周りを回っているんだ』って信じられてた時代もありましたしね」と極論だが(かつ臨床場面から立ち上がってきた考え方と科学的な手法で検証されてきた考え方を等価とするのに異議があるかもしれないが),それだけ認識の深化が始まっているということなのだと思う.やや大げさな物言いだけれども.
 素朴な経験論に立っていうなら,あたしが仕事でセンターに関わり,彼/彼女たちの日常のほんの一部ではあるが接点を持ち,発達障害と呼ばれるものについて知ろうといくつかの本を読んでいた時代に,あたしは「あぁ,オレってADHDと呼ばれる傾向を持つ人間だったんだ」となんとなく思ったくらいだ.
 おそらく,発達障害という概念の理解の難しさは,あたし自身もふとそう思ってしまうような「それは性格なんじゃない?」とのラインがはっきりない,というところにあるのだと思う.これは,医師による診断の場面でもそうで,一度や二度の診察で「この子はPDD」「この子はADHD」だなどと診断はできない.だからこそ,教員や保育士など子どもと家庭外で長時間接するスタッフの見方と付き合わせて,時間をかけて医師は子どもを評価し診断する.発達支援センターはそういうスタッフの一つである.
 性格ないしは常識とされる視点から見て「異常ではない」と考えられる行動特性と発達障害のそれとの違いが明瞭ではないということは,結局,我々も程度の差こそあれ何らかの生きにくさを抱えているわけで,そう言う意味では発達支援センターの存在とは,繰り返しになるが塾のようなものの一つに過ぎないのだと思う.だから,発達支援センターを含む療育関係機関は,発達障害選別システムという機能に特化したものではない.発達障害の持つ困難を抱える親子へはより専門的なアプローチによる支援を行うが,その傾向によっては,端からは一見「保育士と遊んでいるだけ」にしか外部には見えない場合もあるだろう.その子その子に応じたやり方で,子どもの社会性の形成を手伝っていくのがセンターの仕事なのだとあたしは思っている.また,そうした子どもを育てることに困難を感じる親へ手助けするのも,センターの仕事だとも思っている.実際,虐待予防という意味合いでセンターへつながっている親子もいるのだ.
 自分の過去の「所業」を否定されるのに抵抗感があったわけではない,ときっぱり言えるわけでもないが(爆),つい「先輩,本当に社会福祉学を修めてきたんですか?」と言いたくなり,また「もしかしたら,次,その仕事するかもしれないんですよ?勉強してます?」と揶揄してみたくなったので,長文失礼.