読了

 世間はクリスマス前後で街も人の心も華やかなようで…と書き出してはみたが,この北海道の中山間地域は特別,普段と変わるようなところはない.3連休の中日に還暦を迎えた会社の上司のところでそのお祝いとクリスマスパーティを兼ねた宴席に顔を出したくらいが,私にとっての今年のクリスマスだった.
 毎年,欠かさず見ている「M-1グランプリ」も「明石家サンタ〜」もちょいちょい観た程度.「M-1〜」は,優勝者が敗者復活組で,2つのネタともテンポよく構成もきちっとしていて落ち着いて見られたように思う.若干決勝ネタが薄い感じはしなくもなかったが.個人的にはトータルテンボスを買っていたがあと一歩だった.決勝ネタも構成・展開とも凝っていたし,このコンビ,ボケが意外に実力があるのだということも気付かせてくれた.キングコングは,ちょっと勢いだけになってしまった(もともとそういう感じのコンビではあるが)感が否めない.「動きが芸」というよりも「止まったら死んじゃう」みたいな感じになっていたのが痛々しかった(大竹まことの1票はお情けも多分にあるのではと邪推する).
 テレビも特にそれ以外は面白いものはなかったので,結局,連休は酒と本の日々であった.

 しばらく前から読み進めていたものを読了.
 著者と対談する落語家・芸人さんは名前や若干のプロフィールを知っているくらいの人たちだが,どの対談も,すごく興味深くて滋味深いものだった.
 「落語が好きで,中でも廓話が好きで」などと言っても,往時の吉原を肌や匂いなどで感じてきた古今亭志ん生江戸落語界の「四天王」を頂点とする噺家たちのの没後に生まれ,また,話そのものも活字化された名人たちの作品を読むことくらいしかできない私にとっては,いわゆる「廓」とはどういうところだったのかということを知る上で資料的にも価値のあるものだった.
 昭和33年施行の売春防止法が,おそらくは著者や対談者たちにとっては記憶に新しいところなのだろう.「江戸・明治は遠くなりにけり」を地で行く人たちから語られる内容の全てが,せいぜいが「昭和は遠くなりにけり」程度の感慨しかない私にとって,これからも落語の世界を楽しんでいくために「座右の書」とまでは言わないけれども大切な参考書になるだろう.

名人―志ん生、そして志ん朝 (文春文庫)

名人―志ん生、そして志ん朝 (文春文庫)

 著者が考える本寸法の江戸落語を聴かせる最後の噺家,故・古今亭志ん朝へのオマージュの数々が収録.その父であり師匠である故・古今亭志ん生に関するエッセイもあるが,著者にとっては同時代人としての志ん朝に関する思い入れや,志ん朝を喪ったことでさらに失われた落語が体現してきた江戸情緒やことばといったものへの喪失感が強く書かれていた.
 私は,志ん朝の高座は,ほとんどテレビでのホール落語録画しか観たことがないのだが,60代の死はあまりに早すぎる,と亡くなられた当時思った.もっと師匠の落語を観たかったし,聞きたかった.
 志ん朝や(このあと書く)小三治について考えるとき,どうしてももう一人の鬼才・談志のことも頭に思い描いてしまう.前の二人の師匠は,高座のたたずまいや書き物から伺えるのは韜晦的で頑固な人物像だが,談志は,シャイな部分を秘めつつも自らの好奇心に「歯止めなどかけぬ」タイプなのだろうなぁと思う.
 後半の小論,『吾輩は猫である(以下『猫』と略)』から見る漱石の笑いのセンス論は秀逸だと思った.著者自身,少年時代に読んだ時の『猫』の面白さがまるで分からなかったという感想に「あぁオレだけじゃなかったんだ」とほくそえんだ.以下,その小論で,漱石が落語や下町の世界のユーモアセンスに通じ,加えて当時のイギリス文学への造詣も深かったことが,『猫』の分析を通じて展開されている.「たしかに落語という素地がなければ,何がおかしいんだか分からないよなぁ」と納得したし,また『猫』連載当時はこの作品で笑いながら楽しむだけの素地のある人たちが多かったということなんだと思う(「行徳の俎」なんていうフレーズは,地方在住者で30代の人には分かりっこないだろう)。

落語家論 (ちくま文庫)

落語家論 (ちくま文庫)

 柳家小三治が,とある会報誌に寄稿していたエッセイを小沢昭一が再編集し文庫化.
 私は師匠の高座は一度「欠伸指南」ともう一席を独演会で聴いたことがあり,その独特のフラがたまらなく面白く,割合にふわふわとした感じの噺をする人だなぁと思っていたが,このエッセイを読んで,かなりの頑固者で達者な筆の方だなぁ,と意外であった.
 上に挙げた小林氏の著作の基調は「志ん朝亡き今,江戸落語は滅んだ」というものだったが,小三治は(もちろん自身が噺家であるからだろうけれども)そうは思っていない.江戸落語の型や江戸ことばを守りつづけることを如何にして続けていくか,落語の持つ風情や情緒を如何に伝えていくかもともとが噺家としての後輩へ向けたエッセイなので,「落語は死んじゃぁいねぇ,生かすも殺すもおめぇたちの了簡次第」と厳しさの中に愛あるエールを送っているかのようだ.
 小三治は,本書で部分的に推知される言及(「オレの弟子が真打になれないわけがねぇ」といった噺家がいた,など)があるので,おそらくは元・兄弟子である談志をある種の屈折した思いで見ているのだろうと思う.同門であった頃,小三治は談志をどういう風に見ていたのだろうか…とまた,談志にひきつけて考えてしまう私なのだった.ただ,思想的にはそれほど両者に相違点は無いように思う.行動の部分で「横紙破り」で「思想家」である談志と「気骨をもった「粋」」を重んじる「実践家」というスタイルの違いだけなのではないかと思う.
 女流落語家への厳しくもやさしい眼差し,前座の頃の「紙入れ」を地で行く師匠の間男話,そして「梅の家の笑子さん」と題された小品が特に印象に残った.

銭ゲバ 上 (幻冬舎文庫 し 20-4)

銭ゲバ 上 (幻冬舎文庫 し 20-4)

銭ゲバ 下 (幻冬舎文庫 し 20-5)

銭ゲバ 下 (幻冬舎文庫 し 20-5)

 タイトルはだいぶ前から知っていたが,ようやくこのたび手に入れて読むことができた.
 公害問題や学生運動,政財界の癒着構造(これは今でもだが)など,初出当時の時代背景をあえておさえなくても,今なお十分読むに堪える作品だと思う.
 「金」と「地位・名誉」と「愛情」.
 「この世に「愛」さえあれば何もいらない」なんてノーテンキなことは言わないが,そりゃ愛したいし愛されもしたい(性的な意味も含む).でも「愛情」が一番高いハードルだ.
 「地位・名誉」は特に興味はない,今のところ.これも目指す人にとってはハードルが高いだろう.目指さずにレースから降りれば,何のことはないのだが.自分が職について思ったが,えらい人とかできた人とかは,特別なところにばかり偏在してるのではなく,市井にあっても多くいる.それらの人たちは地位や名誉などなくとも尊敬すべき人なのだ.
 そして「金」.
 三者の中ではもっともオールマイティなものだ.あればパートタイムでラヴ・アフェアにありつくこともできるだろうし,地位や名誉も場合によって金銭的に得ることができる.
 その「金」が,ないんだよなぁ…(爆)
 「貧乏だって生きていけらぁ」というのは誠に至極ごもっともな話ではあるのだけれど,やっぱり金はあるに越したことは無い.「清貧の思想」なんてこれっぽちも持っちゃいないから,食うのと読むのと酒に(そして時には遊びに)困らない金は欲しい.だけど,銭ゲバこと蒲郡風太郎ほど強固な意志が自分には無いことは今回の読書ではっきりした.