死ぬにあたっての美学もない

 というのが先だっての無差別殺人だったり,昨今絶賛売り出し中の硫化水素自殺についての雑感.
 茨城県土浦市での8人死傷事件の容疑者は,

「(死にたかったが)自殺はしたくなかった。複数の人を殺せば死刑になると思った」
毎日新聞 2008年3月28日 東京夕刊
http://mainichi.jp/select/jiken/archive/news/2008/03/28/20080328dde041040088000c.html

こういうこと口にする手合いに限って,いざ死刑判決が出て確定したときに事の重大さにあわてふためく,そんな絵が容易に想起される.「死にきれないから誰かに殺してもらいたい」そして国家に嘱託殺人を希望するってのも….
 硫化水素自殺に至っては,死ぬための道具に「硫化水素」を選ぶそのセンスが,なんというか….高純度の屁みたいなものをわざわざ発生させて死のうとするんでしょ?死にたいとは考えていない多数の人を巻き込むという悪質さも含め,心情においても選択した薬剤としてもきれいではないと勝手に思う.死体はきれいでしょ?ってことなのかもしれないが….これから硫化水素で自殺しようとする人は,かなり恥ずかしい死に方を選んだのだなとあたしは勝手に思うことにする.
 人間なんて,簡単に死ぬものなのに,簡単な死に方を選んでしまうこと,それだけにエネルギーを使って「なぜ人間は簡単に死んでしまうのだろう」ということを考えないのはなぜなのだろう.当人にとっては「そんな哲学してる余裕なんかない」ってことなのかもしれないが,「詰み」になる前にまだまだいろんなルートが広がってるのではないのかとあたしは思う.
 先日,高裁での差戻審で被告への死刑判決が出た光市母子殺害事件の被害者の夫,本村弘氏の発言を聞いて,いっそうそう思うのだ.あれだけのことを理路整然と,それでいてすべてを包み込むように言える人はそういない.