読了:伊藤洋一『カウンターから日本が見える』

カウンターから日本が見える 板前文化論の冒険 (新潮新書)

カウンターから日本が見える 板前文化論の冒険 (新潮新書)

 タイトルに惹かれて読んでみた本.あくまで個人的な印象だけれども,新潮新書は食文化をテーマにしたものが多く,以前感想を挙げた,
被差別の食卓 (新潮新書)

被差別の食卓 (新潮新書)

のような充実した作品を期待したのだけれど,やや外れ感が否めない.
 本書の中心テーマは「カウンター料理店はなぜ日本で生まれ,ほぼ日本でしか成立しないのか」ということである.あたしは国内の飲み食いする場所でカウンターに座って至福の時を過ごすことはおろか,海外に出たことすらないので「へーっ,そうなんだぁ」と興味津々ではあった.
 この謎に対し,関西でのカウンター料理店の発祥(著者は大正末期の「流れ板」と呼ばれる板前がこの形式の店を構えはじめて成立した,とする)から,関東(東京)への店舗の進出とそれに伴う旧来の関東料理(「江戸前」と呼ばれる鮨・天麩羅をのぞく)の没落の事情,カウンターという空間がもたらす客と板前との「空気」の理論,さらには日本人以外にも主として料理人の側からのカウンター店舗を持ちたいという願望があるにも関わらずなぜ日本以外ではこの店舗形態が成立しないかを論じていく.
 前半が,カウンター店舗の創業者の子孫(なんか大仰な言い方だな)からの聞き取りや聞き書き本から丁寧に事実を採用しているのに,後半はいささか,著者自身の持論を言い回しを変えてしつこく繰り返すのに終始しているように読めてしまったのが残念.加えて,素人ながらツッコミを入れたいと思ったのは,Wikipediaでの検索結果をそのまま引用してきていること.たしかに,先行研究など無い世界だとは思うのだが「当たらずとも遠からじ」というべき線の文献から情報を引っ張ってきた方がよかったのではないかと思う.
 こうした店舗形態が日本にしか見られない,では,なぜ日本にしか見られないし今後も日本以外では展開するのが難しいのかについての著者の(仮)説は,材料の鮮度を保つための技術・物流の進展,対面で危険物(包丁)を取り扱ってもそれが容易に犯罪に結びつかない“安全な社会”が維持されていること,食に関する宗教的戒律――というよりそもそも宗教性――が日本に希薄であること等を含む5点を挙げているが,このあたりは章をまたいで持論の繰り返しになっている感が否めない.そこにカウンター料理店の「フラット性」――「オープン」ではなく――だとか「トレーサビリティ」とかといったことばをちりばめらても「そうも言えるかもね」くらいの印象しか持ち得なかった.
 たとえば,屋台による料理の提供,というのはおそらく世界的にもあると思うのだが,これに関する言及は全くない.いや,無くたっていいのだが,読み手とすれば比較的容易に思いつきそうな店舗形態のように思われる.このあたりについて著者はどう回答するのか…しないよなぁ.「なぜそう思う?」と訊かれても今は答えに窮するが,所詮「新書」だしなぁ….
 素材はおもしろい.なのに食い足りない.大変恐縮ではあるが,そういう物足りなさを感じた.