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『戦う女たち:日本映画の女性アクション』

 ここ数年くらいの話ではあるのだけれど,邦画や韓国映画をレンタルDVDで観るのが習慣に近くなっている.帰宅後の19:00から22:00位の時間帯,以前なら晩酌しながら,パソコンのモニタに向かってネットしつつ,脇でつけっぱなしのテレビをつまみ食いのように見ていたのだが,最近はこの時間帯が映画を観る時間になってしまった.とにかく芸人を引っ張り出してきて,無闇矢鱈に食わせるか,クイズを解かせるか,そんなのばっかりでバカバカしさや演芸が好きなあたしでも,まるでほめられない下らなさだからだ.

 そういう次第で週に3〜4本は映画を観ているのだけれども,子どもの頃から熱心な映画好きだったか?と問われると「映画小僧」のような時代はなかった.若い頃は,金があれば映画よりも本につぎ込んでいたという行動パターンだった.また,仮に「これは観たい」という映画があっても,上映してくれる映画館がいつも近場になかった(それは今でも変わらない),といういわば地理的制約もあった.さらに,映画を観るという行為は,一定の時間そのことに拘束されるものだから,生来何事も「〜しながら」な自分には苦痛で一時映画を観ることを断念していた,ということもある.
 そういう半端さながら映画を観るのが自分では好きだと思っているあたしにとって,本書のような映画評論は,まず論者たちの圧倒的な知識量の前に挫折感を禁じえず,怯むことしばしばではあった. この評論集が素材として扱う邦画の範囲は,戦前から始まり『美少女戦士セーラームーン』『少女革命ウテナ』『プリキュア』あたりのアニメまでとそのレンジは広い.この時間のレンジの中に,あたしのような素人からしてみれば無数に近い作品の集積があるわけで,「どうせオレなんて…」と卑屈に逃げたくもなる.序章の四方田犬彦による解題のあと,鷲谷花「撮影所時代の「女性アクション映画」で論じられる作品は見たことがないどころか,その頃あたしはこの世にかけらもなかった時代の話で,当時の俳優・女優などほとんど名前も初めて目にするといった具合だったので,被害妄想気味のあたしは「勝手に映画好きだと思っててすみませんでした!」と逆ギレ気味で関係各位に謝罪したのだった.

 しかし,この本を残して,そして仕事もほっぽりだして「探さないでください…」と失踪するわけにはいかない事情があった.それは,「[書評]のメルマガ」で募集された「献本読者書評」に自ら本書を指定して応募したのだったからだ.ほかにも色々あったのに「邦画」「女性アクション」そのサブタイトルに迂闊にも惹かれてしまった己の軽率さをしばし呪った. 斯くの如き事情であったから,「別に誰がそう評価するわけでもないがたしかに自分の「映画好き」は偽装表示だったと反省しよう」そして「たまぁに映画とか〜,観ますよぅ」レベルぐらいに自分のポジションを落として「この本から観てみたい作品が出てきたら儲けモノ,修行!修行!」くらいの感覚で再読し始めた.

 幅と厚みを持った邦画史の中での作品(監督)論だったり女優論であるから,いくつかは自分の映画(鑑賞)史と交錯するところがある.あたしの場合は,『緋牡丹博徒』シリーズの富司純子(当時は藤純子)を取り上げた斉藤綾子「緋牡丹お竜論」,志村美代子「アクション・ヒロインとしての安田道代」,真魚八重子「気高き裸身の娘たち──東映ピンキーヴァイオレンス」,内藤誠「東京ローカルとしての「女性アクション」」がくみしやすい部分もあり,楽しめた.30代半ばの野郎なので,これら論文で取り上げている作品はほぼ全てあたしの出生前ないしは幼児期の作品なのだが,観ているものが多い. 斉藤論文では,私怨を晴らすため渡世人となった女侠客・お竜という設定のシリーズが,それまでの「男が男の粋に惚れる」任侠映画の表現のお約束をどのように踏襲し内から破ったかを「アクション」「ジェンダー」「メロドラマ」「任侠」の各コードに沿った表現を分析枠で読み解く.真魚論文は,東映任侠路線に続く'70年代の池玲子杉本美樹梶芽衣子がヒロインとなったいわゆる「東映ピンキーヴァイオレンス」路線の,多分に世相を反映した「性と暴力」を中心としたドラマ・表現の変遷を丁寧に追っている.内藤論文は,そのピンキーヴァイオレンスの流れに位置する作品の制作者の観点から,自身の映画史を回顧する趣向のエッセイないしは証言の趣で面白く読めた. 

 アクションものというとどうしても東映を思い浮かべがちなあたしだが,大映時代の安田(現・大楠)道代を題材とした志村論文も,興味深かった.あたしは彼女の出演する『痴人の愛』『セックス・チェック 第二の性』しか観たことがなかった.パトロンの会社員(小沢昭一!)にわがまま放題で時には男に馬乗りになって尻をひっぱたくシーン(『痴人の愛』)や,海の見える合宿先で鬼コーチ(緒形拳)のしごきを受けながら来る日も来る日も走り続ける男のような女性スプリンター(『セックス・チェック』)の演技が記憶に残っている.『赤目四十八瀧心中未遂』での女店主役や『ジャージの二人』でのお隣さん役の演技派女優・大楠道代とはまるで違っていた.

 そんなワイルドで肉感的なルックスの彼女は,『緋牡丹博徒』のような同時代の女侠客物でのドレスコードも変えてしまう.お竜の富司純子はあくまで故あって女である事を捨て渡世人となったという存在で,彼女の演技に垣間見るエロチシズムの断片とは,例えばアクションのラッシュ中に乱れてしまった着物の裾から赤い襦袢がちらりと見える,といった偶発的で古典的な女性表現の枠内に収まっている(斉藤論文から).一方安田道代はというと,『草笛お紋』のようにはなから肌の露出するような,およそオーソドックスではない着物の着こなしというかコスチュームで,実に対照的.こうして志村論文と斉藤論文で同時代の女性アクションやその表現の意図するところを対比するのもなかなか面白かった.

 明治学院大学で同様のテーマを扱って開催したシンポジウムが本書編纂のきっかけになっていて,多くは研究者の手になるものだから映画理論や文学理論を援用しつつの小論揃いで,なかなかに歯ごたえがある.また「日本映画の中の女性史」よりも小さな括りで議論が展開されるから,専門書としての性格が強い.まぁ「歯が立たない…」という第一印象には致し方ない部分もあったわけだ.通読は困難かもしれないが,好きな女優・好きな作品・好きな時代に言及した論文を拾い読みするだけでも,充実感ありだろう.あたしは真魚論文に触発され,未見のピンキーヴァイオレンスを漁ってみたいという気分.でも,DVD化されてない,もしくは廃盤が多いんだろうなぁ….(敬称略)