内田隆三『社会学を学ぶ』ちくま新書.(2)

第2章の「社会学入門」のパーソンズ「構造ー機能主義」の概説とパーソンズ理論への批判のあたりまでよ う や く来た.
筆者の別の著作よりは読める,というか学生の頃はたぶん自分の側に理解力がなかったんだろうと思う.加えて,本書が他の著作に比べ筆者の熱が伝わる中身になっているから,斜め読みに近い流し方でも(爆)自分に読めるのだと思う.
'69の東大紛争・安田講堂攻防戦後の事態収拾のため,同年,東京大学は入試を中止したのだが,これにより筆者はおそらく東大受験を断念せざるを得ず,京都大学へ進学する.この事件が,哲学志向の筆者を社会学へと転回させる画期となったことは本文から伺える.
進学後,デュルケムの『自殺論』に触れた筆者は当時の衝撃を次のように述べる.

「およそ以上のような思考と問題設定に,私は強い感心を覚えた.だが,この問題設定が肯定的に考えられるのなら,何か怖ろしいことでもある.というのは,もし社会がたえず私の意志や行為と交錯しながら,それ自身の効果のうちに私の現実を布置づける力として作用しているのだとしたら,一体,私の主体性と呼ばれるものはどうなってしまうのか.そういう不安がよぎるからである.私は反芻してみた.好むと好まざるにかかわらず,私は,社会的存在であるが,それはこのような負債にも似た力の効果となり,また自分自身もその見えない力の一部になることだとしたら……と.[2005:46]

最後の一文の考察(自らも他者の現実を布置する力を及ぼす主体とならざるを得ない)は,かつての自分には到底できなかったが,社会という見えない力への畏怖は,言語化しにくい社会からの圧迫感として自分も同じ頃に感じたものだ.
今なら「そういうことは当たり前だ」と自動的に考えて即答すると思うが,若い頃というものはその「当たり前」を真正面から感じたり考えたりするものなのだなぁ,とバカみたいに共感してしまった.