簡単に「死にたい」と言わんでくれ…

予定していた映画観にいく話は,先方からキャンセル.その先方,「ふられた」「仕事を辞めた」「実家に戻ってきていて,継母と折り合いが悪い」といった要因がどう絡んでいるのか分からんが,しきりに死にたいから睡眠薬をくれ,とメールをよこしてくる.

当方も,原理的に死ねば考える必要がないから「じゃあ心中する?」と返してみたりするが「確実に死ねるなら」とまだこの話題に食い付いてくる.

そのくせ,(ひとり暮らししてる)家にあげてくれ,とゆーても「だめー」なのだ.

言ってるオレもぐふぐへぐはなエロオヤジぶりだと思うが,死ぬんなら生きてる間,何があっても別に関係ねーじゃんかよ.

けっこうネット界隈には,詩人よろしく,へたっぴで,カッコつけてるつもりの「ただただ鼻につく耽美派」で「愛」だの「死」だのをだらだら書いている御仁がいて,そこに似たような体験歴を持つ方々が,もうホントに文字どおり「傷の舐め合い」コミュニティを形成しているところがある.

その人たちのやりとりを目にして,彼/彼女らがそれでカタルシスを感じているなら他人のボキにとってはどうでもイイ.ただ,自分の近くにそうした方々と似た思考の人がいると,あちゃー感を禁じ得ない.

土台,本気で死を考えるほどへこんでる方は,やる時は誰にも何の相談・打ち明けもなしにあの世へdiveしてっちゃうだろうに…と書いてみて気付いたが,そういう感覚は,たぶんリスカover dose青年層にはない心理かもしれまへんな.

中高年リーマンで自殺した人が生前から「死にたい.生きててもつまんないしぃ」とか周囲に漏していたとか,よく腕に包帯が巻かれていたのを見た,という話は聞かない.もう,このクラスの方々は,基本的には死なない限り死ねないというところが実際なんではないかにゃあー?家族・会社といった組織の重要な担い手だということが自他共に認められているから,簡単にそこから降りられないわけだ.もちろん,例外もあるだろうけど.

そこをいくと,青年層は「死んでもいいか」「まだ死ななくてもいいか」「死にたい」「死にたくない」という考えが自由奔放にできるもんね.私にもそういう時代がありました(だからといって現在漏れが,帰属する集団に自他共に認める必要な成員だとは思ってないけど).

すごく語弊があるが,「死にたい」と言うが死ねずにだらだらしている人に感じるオレのだるさには2つの要素があって,一方はかつての自分を見ているような思いにさせられる嫌悪感.そしてもう一方は,「この人,平時に「死」を考えてこなかったクチだね」という死に対する薄っぺらなセンスのない考え方.なんか,「死ぬ」「死ぬ」言う人にとっての死が,象形文字としての「死」という字の見えようくらいありふれててつまらなきものに見える.

生活に疲れた,生きるって不条理だ,ほかにも様々な理由があるだろうが,「だから死のう」と考える人たちにとって,自殺系サイトとかは,その人が生きるためにも死ぬためにも意味あるものだと思うし,排除せよとは全く思わない.だけど,そこでなされている言葉のやり取りは,傍観者から見て全然かっこよくないし,恥ずかしいと思われてたりしてますよー☆

だから『世界の中心で,愛をさけぶ』が観たいと言いながら「死にたい」と口にする知り合い女子にどうしようもないバカっぽさを感じるのだ.作り話とは言え,向こうは生きたくても生きられなかった人の話だよ?死ぬのなら,黙って死ぬべし.

と,本人にはとても伝えられそうにないことをここで記してみるテスト.